勿忘草 第一話

 

 どこまでも続くかのような長い廊下を、俺達は歩いていた。きしきしと鳴る床が、この家の古さを物語っている。聞いた話によると、この家、神宮寺家は俗に言う旧家で、かなり昔からここに土地を構えていたらしい。とはいえ、あまり家の事を話したがらないようで、それ以上詳しいことは話してくれなかった。かく言う俺も、然程他人の家庭の事情には興味がないので、深くは突っ込まないことにしている。

「佐伯さん、お部屋はこちらになります。」

 二つに分かれた廊下のうちの、右に曲がってしばらく行ったところで、俺の前を歩いていた初老の女性が襖を開けつつそう言った。藤色の着物を着た、上品そうなこの老女は、この家で雇われている女中さんだそうだ。彼女の他にも何人かそのような人たちがこの家で働いている。確かに、それほどの人を雇わなければ、掃除が大変であろう。それくらい、この家は広い。

「佐伯さん、お荷物、お預かりしますか?」

 ふと我に返り、部屋を覗くと、そこには八畳程の和室があった。きれいに掃除がされており、塵一つ見当たらない。

「・・・あの、本当にここでいいんですか?俺・・・いや、私は、お客としてここに来た訳ではないのですが」

「はい、外から来た方は皆お客様ですから。どうぞご遠慮なく、このお部屋をお使いください。それでは、後ほど。」

 妙に慇懃な口調で言うと、老女は一礼して、暗い廊下の奥に静かに消えていった。どうせ同じ立場になるのだから、そんなに丁寧な態度をとらなくても良いのにと、俺は苦笑しつつ、ボストンバッグを片手に部屋へと足を踏み入れた。

 学生の身である俺は、現在夏休みの真っ只中であった。久々に田舎に帰省し、実家でのんびりと過ごしていたのだが、それも次第に退屈になり、ぷらぷらと町を歩いているところで偶然見つけたのが、この大きな屋敷であった。門には張り紙があり、こう書いていた。『アルバイト募集。一週間住み込みで、家の手伝い・・・・』とか、そんな内容だったと思う。バイト料もそれなりで、早速問い合わせると即採用。それで、今日から仕事だというわけである。こんな大きな屋敷に寝泊りできるなんて、滅多にあることではない。それもまた、ここに来た理由の一つでもあった。

 荷物を置き、動きやすい服装に着替えて外に出た俺を待っていたのは、庭の草むしりという仕事だった。門をくぐってから最初に目にしたのがここの庭で、森のような広い庭に思わず目を見張ったものだった。定期的に庭師が来て、庭の手入れをしていくそうだが、それでも雑草の伸びが速く、今まで女中さん達はかなり苦労したらしい。そこで俺のような男手が必要で、臨時のアルバイトを募集したとのことだが、一週間しか居ないうえに、雇われたのが俺一人だけなようなので、あまり問題が解決されたとは思えないのだが・・・。しかし今はそんなことより、この広大な敷地の草むしりを一人でやらなければならないかと思うと、気が重くてしょうがない。

 日がかんかんと照りつける中、俺は黙々と草むしりを続けた。額を伝う汗をタオルで拭いながら、もうかれこれ一時間はやっただろうか。暑さで意識が朦朧としてきた俺は、近くの木陰で一休みすることにした。木にもたれかかり、辺りを見回したが、庭の半分も終わっていないことに気づき、愕然とした。

「マジかよ・・・」

 思わず口に出してしまった。今日一日では終わらないなと、俺は確信した。その時である。

「・・・・・くすくす・・・・・・・」

 女の子の笑い声らしきものが聞こえてきた。俺は慌てて辺りを見回すが、誰も居ない。空耳かと思い、前に向き直ると、いつの間に居たのか、一人の少女が目の前に立っていた。

 年は俺と同じくらいか、華奢な体を白い涼しげなワンピースで包み、腰まで届きそうなくらいに長い、艶やかな黒髪を風になびかせている。微笑を浮かべ、こちらをじっと見ていた。

「こんにちは。君は、この家の人?」

「・・・・・・・」

 少女は何も言わず、相変わらず笑みを浮かべ、こちらを見ているだけだ。

「俺は、アルバイトでここの手伝いをしに来ているんだ。別に怪しい者じゃないよ。」

「・・・・・・・」

 すると少女は、くるりとこちらに背を向け、ぱたぱたと走り去ってしまった。

「あ、お、おいっ!」

 俺も慌てて彼女の後を追いかけようと立ち上がろうとした。

 ところが、急に立ち上がったのがいけなかったのか、頭が急にくらっとし、目の前が暗転していった。情けないことに立ちくらみを起こしてしまったらしい。草の匂いが微かにしたかと思うと、俺の意識は遠のいていった。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 どれくらい時間が経っただろうか。頬にひんやりとした感触と土の匂いがし、俺は薄っすらと目を開けた。

 目の前には、何だかよくわからないが黒い物体があった。それが俺の頬に当たっていた物の正体らしい。なおもそれは、俺の頬を小突き続ける。

「ちょっとあんた、いい加減目ぇ覚ましなさいよ」

 突然、黒い物体が女の声で喋り出した。

「・・・・なんだ?」

 俺は思わず呟いた。

「それはこっちの台詞。ったく、人んちの庭で眠ってるなんて、良い度胸してるじゃないの」

 呆れた声でそれは言う。なんとなく、声が上から聞こえているような気がするのだが・・・。

 俺は訝しげに眉をひそめ、首を上向きにした。

「誰だよ、お前」

 そこには、一人の女が立っていた。この家の和風の雰囲気にはおよそ似つかわしくない格好をしている。茶色に染めた髪を二つに束ね、デニムのスカートにピンクのニット。そして俺の頬を小突いていた黒いブーツ。ちなみに今現在の俺の体勢は、地面に寝ている状態なので、嫌でも見える。何が、とは、あえて聞かないでくれ。

「なんなのよ、その態度。てゆーか、あんたこそ何者?場合によっちゃあ、警察呼ぶわよ」

 腰に手をあてて、やたらと偉そうな態度で彼女は言う。俺は仕方なく、頬についた土を手で払いながら、ゆっくりと立ち上がった。俺はどちらかというと背は高いほうだが、彼女のブーツのおかげで、ほぼ同じくらいの目線となった。化粧のせいで年齢は不詳だが、口振りからしてまだ若いほうだろうと思う。それにしても・・・

「それにしてもお前、人様の顔を足蹴にしてはいけない、って、学校で習わなかったか?人が倒れているというのに、心配もせずこんなことをしやがって。お母さんはそんな子に育てた覚えはありません。」

「誰がお母さんよ・・・。だいたい、さっきから人のこと『お前、お前』って言ってるけど、あたしにだってちゃんと名前があるんだからね。『深雪』っていうかわいい名前が。」

「確かにかわいい名前だが、お前には似合わん気が・・・あ、いや、なんでもないです。俺は、佐伯・・・」

「サエキ?ああ、臨時雇いのバイト君か。そっか、あんたのことだったの。あまりの庭の広さに早くも挫折、ってわけ?情けないわね。別に草むしりだけが仕事じゃないのよ。今からそんなことでどうすんのよ?」

 彼女、深雪は、人の言葉を遮って失礼なことを言う。そもそも部外者にそんなことを言われる筋合いはない。

「この神宮寺家の深雪様が、パパに言って、仕事を減らすように言ってあげても良いわよ。ただし給料も減るけど。ま、これくらい当たり前ね。」

「何を偉そうに・・・って、お前、ここの娘だったのか?俺はてっきり、家を見学に来た奴かと思った。」

「ンなわけないでしょ。とにかくほら、仕事しなさいよ。そうしないと、さぼって寝てたこと、パパにチクるわよ。」

「別にさぼってたわけじゃないぞ。ちょっと・・・あ、そうだ。聞きたいんだけど。」

 俺は屋敷のほうに向かおうとする深雪を呼び止めた。

「なに?」

「お前、あ、いや、深雪にはお姉さんか妹はいるか?」

「・・・いるけど。それがどうかしたの?」

 訝しげに聞く深雪。それを聞いた俺は、なんとなくほっとした気分になった。

「いや、ちょっと気になってな。無口でシャイな人だったな、かわいかったけど。」

「お姉ちゃんに会ったの?確かに口数はあまり多くないけど・・・。別に無口ってわけじゃないと思うよ。あ、もしかして、お姉ちゃんに惚れたの?あはははっ、だめだめ、諦めなさいって。お姉ちゃんとバイト君とじゃ、どう見ても釣り合わないわね。もっとレベルが高くないとね。あんた、顔はそこそこだけど、性格悪いから。」

「・・・人のこと言えるのか?」

「どういう意味よ?っと・・・、来た来た。ま、せいぜい頑張りなさい。無理だと思うけど」

 意味ありげな笑みを浮かべつつ深雪はそう言い残し、ガコガコとブーツを鳴らしながら屋敷のほうへ歩いていった。

「なんなんだ、一体・・・。」

 俺は気を取り直し、作業を再開しようと木陰から出た。すると、ちょうど門から入ってきたらしい女性と目が合ってしまった。ストレートボブの髪を手櫛でかきあげながら、こちらへ歩いてくる。

「あ、どうも・・・。こんにちは」

 その女性は、一瞬きょとんとした表情になったが、すぐに事態を把握したのか、にっこりと笑い、

「あら、こんにちは。お仕事ご苦労様です。」

 軽く会釈をすると屋敷のほうに向かおうとした。俺は咄嗟に彼女を呼び止める。

「なんでしょうか?」 

 年は恐らく俺より上だろう。すらっとした長身に黒のカットソー、白いふんわりとしたスカート。知的で上品そうな顔立ちの彼女は、俺の初めて見る顔だった。

「あの、あなたは・・・・。深雪さんのお姉さん、ですか?」

「ええ、そうですよ。申し遅れました、私、深雪の姉の魅月といいます。よろしくね、佐伯さん。」

「はあ、こちらこそ・・・。ところで、妹は深雪さんの他にいますか?」

「いいえ、妹は深雪だけですよ。二人姉妹なんです。」

 さも当然、という風に、魅月さんは言う。

「えっと・・・。髪の長い女の子なんて、この屋敷には・・・」

「お婆様は髪が長いですよ。いつも結うのに苦労しているみたいです。」

「・・・お婆様は女の子じゃないぞ・・・。ってことは、居ないのか?でも・・・見間違い・・・うーん・・・。妙にリアルだったしなあ。暑さにやられて変なもの見たのか、俺は?」

 ぶつぶつと呟く俺を不思議そうに見つめる魅月さん。

「あのぅ、どうかしましたか?」

 俺ははっと我に返り、

「あ、いや、大丈夫です。あの、そろそろ仕事再開しますので・・・」

「そうですか、邪魔してしまってごめんなさいね。それでは、頑張ってください。」

 魅月さんは一礼すると、静かに屋敷のほうへ歩いていった。

 うーむ、同じ屋根の下で暮らして同じ物食べていても、こうも違ってしまうものなのか・・・姉妹といえども、同じ血をひいているはずだが。

 いやいやそんなことよりも、あの少女は一体なんだったのだろう?もしかして、本気で屋敷を見学に来た人だったのだろうか。

 やや釈然としない気持ちで、俺は草むしりを再開したのであった。

 ざわざわと木々が風に揺れる。その風に乗って、あの少女の笑い声が聞こえてくるような、そんな気がした。

プロローグ     第二話     Novel     menu