勿忘草 第六話

 

 風が心地よい。

 ここからは、町が一望できる。

 八百屋を後にした俺は、真っ直ぐ屋敷には戻らず、しばらく町の中をうろついていた。

 実家が近くにあるのに、この辺に来たという記憶があまり無い。確かに、この鄙びた商店街の並ぶところに、男の子がそうそう立ち寄るほどの場所があるとも思えないのだが・・・。

 ふと。目の前にある石段に目が留まった。何気なく上まで上ってみる。

 頂上まで行くと、そこにはただの空き地が広がっていた。剥き出しになった土。所々に生えている雑草。ここを取り囲むかのように立つ、数本の木。何の為にこんな空間があるのかは分からないが、あまり人の出入りは無いらしい。

 子供が遊ぶには良い場所だと思うんだが・・・。

 下には先程の町がある。その反対側、森に埋もれるように、神宮寺家の大きな屋敷が建っていた。

 風が吹く。木の葉がざわざわと揺れた。

 蝉か何かの虫の声がうるさく響いている。

 ぼんやりと景色を眺める。と、こんなことをしている場合ではない。大根とネギを早く持って帰らなければならないのだ。

「・・・・・・・・・・・・・くん・・・・・・・」

 囁くような、女のか細い声がした。・・・・ような気がした。

 気のせいかもしれない。俺の他に、ここには誰もいないはずである。

 ここ二、三日、こういった妙なことが起こって困る。何も起きませんようにと、俺は心の中で祈りつつ、意を決して後ろを振り向いた。

「おわっ?!」

 思わず声を上げてしまった。

 俺が振り向いた瞬間。誰かが抱きついてきたのだ。

 黒い頭が俺の胸の辺りにある。白く華奢な腕が、俺の腰を抱いている。

 呆然と立ち尽くす俺。手にしたビニール袋が風でがさがさと鳴った。

 ふと、そいつは顔をあげる。

 その顔には見覚えがあった。

 長い黒髪が風になびく。白い顔が、こちらをじっと見つめていた。

 アルバイト初日に出会った、少女だ。あの日と同じ、白いワンピースに身を包んでいる。

 にっこりと、その少女は微笑んだ。何だかとても嬉しそうである。

「また、あえたね」

 幼い子供のような、舌足らずな口調で彼女は言った。

 口調こそ幼いものの、見た目から察するに、年齢は俺と同じか少し下くらいだろう。

 初めて間近で顔を見るのだが、きれいな顔立ちだと思う。切れ長の目、長い睫毛。すっと通った鼻筋。小さな顔に細い手足。触れたら折れてしまいそうなほど、華奢ではかなげである。

「君は・・・・・」

 誰?と言いかけて、俺は言葉を切った。

 知っている。

 分からないけれど、確かに俺はこの娘を知っている。なんだか矛盾している。

 遠い昔。

 名前が・・・・・・・。出てこない。

 懐かしい気持と、もどかしい気持が綯交ぜになる。

「あいたかったよ、ずっと」

 彼女はそう言って、俺の胸に顔をうずめた。

 辺りの音が消えた。蝉の声も、風に揺れる木の葉のすれる音も消えた。

 まるで、2人だけが世界に取り残されたかのように。

 再び彼女は顔を上げる。

 すっと瞳を閉じ、そのまま動かなくなる。俺の腰に回した彼女の手に、微かに力が入る。

 俺は彼女の肩に手をかけ、それに応えるかのように彼女に顔を近づけていった。あと少しで触れ合おうかとした瞬間。

 ずきりと頭が痛んだ。

 目の前が一瞬白くなる。

 次の瞬間には、目の前には誰もいなくなってしまっていた。

 俺の両手が、彼女の肩に手をかけた状態のまま、空しく宙を抱いていた。

 地面に目をやると、小さな青い花が幾つか散らばっていた。来たときは何も無かったはずだ。俺はそれを指で摘み上げる。なんの種類の花なのかは知らない。可愛らしい花である。

 俺はその小さな青い花を集め、ジーンズのポケットに突っ込んだ。これを持っていれば、またあの娘に会えるかも知れない、などと思いつつ。

 一つ気になったことがある。

 さきほど、頭が痛くなった瞬間。ほんの一瞬ではあるが、俺の頭をかすめていった映像があった。

 夜中に出会った、小さな女の子の顔である。その娘の顔がなぜ出てきたのかは分からない。

 分からないが、心なしか、その顔に怒りと悲しみが浮かんでいたような印象がある。

 まるで、俺とあの娘との仲を快く思っていないかのように。

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