勿忘草 第五話

 

 父は厳格で、あまり多くは語らない人であった。いつも数人の男を従え、仏頂面で何を考えているのか分からなかった。家族でどこかへ出かけたり、食事をしたり。子供の頃は誰にでも一つや二つあるであろう思い出の類は、私の記憶には無かったように思える。

 それでも私は、それが普通だと思っていたから、特に気にもしていなかった。否、本当は気にしていたのかもしれない。だが、それを認めたくはなくて、平気な振りをしていただけなのかもしれない。

 だが父は、母には優しかった。病弱で、いつも床に伏せっていた母。色白で長く黒い髪。華奢な体つきの母は、日本人形のように美しかった。切れ長の目は、いつも私を優しく見つめ、白く細い手は、私を抱きしめてくれた。私にとって母は、唯一心の休まる場所であったのだ。

 仕事で忙しい父は、その合間を縫って、度々母の部屋を訪れては、二言三言、言葉をかわしていた。会話の内容は分からなかったが、父の表情は今まで見たことが無い程穏やかで、優しげであった。

 それを陰から見ていた私は、何だか妙な気持ちに襲われた。怒りか、悔しさか、哀しさか。淋しさか。とにかく、幼い心には衝撃的であった。自分には決して見せないあの顔が。

 なんだか憎らしかった。

  **

 そんなある日。母が亡くなった。あまりに突然で、何が起きたのかしばらく理解できなかった。

 母の部屋の障子を開けると、いつものように微笑んだ母の顔がそこにあり、私を出迎えてくれると思っていたのに。おかえりなさい、と優しい声で言ってくれると。

 そこには静かに目を閉じ、横たわる母がいた。初めは寝ているのかとも思った。そう、思いたかった。

 私はそっと、母の手に触れてみた。悲しいくらいに、細く、そして冷たい。

 顔の方に目を移す。二度と言葉の紡ぎ出されることの無い、薄紅色の唇が、青白い肌に映える。このような姿になってもなお、母は美しいと思った。

  **

 その日から、父と私との距離はさらに遠くなった。母を間に、なんとか均衡を保っていたようなものだ。父は益々仕事に打ち込み、家に帰らない日も少なくはなかった。私はなんだか、心にぽっかりと大きな穴が開いたような気分になった。

 父が後妻を迎えた後もなお、それは変わらなかった。

 そのうち私も成人を迎え、将来の事を考え始めたある日、父は突然私に話があると言ってきた。いつも父の脇に従えている男達を残し、私は一人、父の後をついていった。

 廊下を歩く二人は終始無言のままであった。重苦しい空気が辺りを支配する。

 体格の良い父ではあったが、疲れている所為なのか、背中を丸めて歩く姿は、なんだか父が小さく見えた。

 この家はこんなにも広かったのかと思うくらい、長い廊下だった。昼間だというのに薄暗く、少し肌寒く、不気味な雰囲気である。見れば何の変哲もない、ただの廊下なのだが。

 やがて襖が見え、父はその前で足を止める。こちらに顔を向け、

「お前ももう成人を迎えた。そろそろ話しても良い頃だろうと思ってな。この家の時期当主として、知っておくべきことだ。これは代々、長男にのみ伝える事なのだが」

 父はそういうと襖に手をかけ、失礼します、とゆっくり引いていった。

 そこは六畳ほどの和室だった。床の間には花が生けてあり、出窓からは日の光が淡く差し込む。客間のようである。

 ふと畳に目をやると、折り鶴や紙風船、作りかけの折り紙などが散乱していた。お手玉のような物もあった。子供がいたのだろうか。ところが、いくら辺りを見回してみても、誰もいない。

「おかわりありませんか。なにか不足しているものがありましたら、お申し付け下さい」

 父は、やけに丁寧な口調で、誰も居ない部屋に向かって話をしている。

「今日は紹介したい人がおりまして。息子の泰蔵です。」

 そう言い、私の腕を引き寄せた。私は眉間にしわを寄せ、

「父さん、一体誰と話をしているんだ?」

「お前、見えないのか」

 憮然として父は言う。

 何が見えると言うのだ、父には。私はもう一度、部屋を目を凝らしてじっと見つめた。

 その時、何かがすっと目の前に現れた。野球のボールほどの大きさの青白い、光の玉だ。

「!?うわあっ」

 私は驚いて二、三歩後ろにあとずさった。

「な、な、なん・・・・」

 青白い光は、ふわふわと不規則に飛び、やがて折り紙の散乱している場所へと落ち着いた。

 それは次第に形を取り始める。丸かった光は、水に落とした絵の具のようにじわじわと広がり、まず顔のようなものがひねり出された。そこから胴体、腕、脚と、徐々に人の形を形成する。さらに色が滲み出る。赤。赤い着物だ。白い肌。真っ黒な髪。

 少女だ。

 赤い振袖を着た少女が、そこにいた。年の頃は十歳・・・いや、まだ達していないかもしれない。

 私は言葉が出なかった。背中に冷たいものが走る。空気が重い。頭がじんじんと痛み、吐き気もしてきた。

 何だ・・・。この感じ・・・・・・・・・。

 私はたまらずよろめき、壁にもたれかかる。

「平気か。」

 父は私を一瞥する。どうやら父は何とも無いようである。

「こういうものに敏感に反応する者もいるようだからな。恐らくお前もそうなのだろう」

 私は口元に手をやり、必死で吐き気を抑える。早くここから出たい。

「この御方は昔からここに居るのだと、先代から聞かされた。だが、いつかは出ていく日がくるのだという。その時は、神宮寺家の衰える日なのだそうだ。だがそれを引き止めてはならぬ。それもまたこの家の定めなのだ」

 父は淡々と言う。だが私は、目の前の不可思議な光景に、父の言葉などほとんど耳に入らない。

 少女の方へ恐る恐る視線を移すと、少女は無表情のまま、父の方を向いていた。人ではない。ならば何なのか。得体の知れない何かが、ずっとこの家の奥に住み着いていたと言うのか。そう考えるとぞっとする。

 ふいに、こちらを向いた少女と目が合ってしまった。

 少女はにこりと私に微笑みかける。

 その時。

 私は胸の高鳴りを抑えることはできなかった。吐き気や頭痛など、どこかへ吹き飛んでしまった。

 白磁器のように白い肌、おかっぱに切り揃えられた艶やかな黒い髪。見るものを捕らえて離さぬ真っ直ぐな視線。まるで日本人形がそのままそこに立っているかのような錯覚を覚える。

 美しいと、思った。

 と、同時に、以前もこのようなものを見たことがあるような気がした。

 ・・・・・・・・・・・白い肌、黒い髪、切れ長の目。

 母だ。

 幼い頃に亡くなった、母にそっくりなのである。

 その時から、私の頭の中には、少女の顔が離れなくなった。

 幾人かの女性と付き合ってはみたが、やはり彼女の顔がちらついて、どうにも本気にはなれなかった。

 憑かれている。

 とある友人がそんなことを言った。ある意味そうなのかもしれない。

 不憫に思った義母は、知人の娘とやらを私に紹介し、私もそろそろ身を固めなければと、その女性と結婚をした。それでも、少女の顔は私の心の中にいて、時折ひょっこり顔を出し、あの笑顔を私に向けるのである。私は平静を装うのに必死だった。

 ・・・・・・・・・気が狂いそうだった。

 あれ以来、私はあの少女の元には行っていない。行ったら、私があの少女に何をしでかすか分からないからである。

 それでもいつしか、二人の娘も授かり、平凡に家庭生活を送っていた。

 そんな折、父が病気により他界し、私は神宮寺家の当主となった。亡くなるまで父が現役だったため、かなり遅い着任になる。

 あの少女はまだ、この屋敷に居た。何年たっても、少女の姿であった。

『・・・・いつかは出ていく日がくるのだ・・・・』

 父がそんな事を言っていたような気がした。

 もしかしたらそれは、父がいなくなる日なのではないか。そう思うと、私は怖くなった。また、私の元からいなくなってしまうのか。そんなのは嫌だ。だが、あの少女は人間ではない。いつ、いかなる方法をもってこの屋敷から姿を消すのか分からない。

 どうすれば、あの少女をずっとここに置いておけるのだろう。

 知人の話によると、そういったことはそういう世界の人に相談するが良いと、一人の男を紹介された。

 中年の、なんだか胡散臭い男だった。陰陽道とかいう、怪しげな術を使うらしい。さっそく呼び寄せると、男は少女を見るなり、

「あなたも欲深い人ですなあ」

 と、いやらしい笑みをこちらに向けた。何の事だか分からなかった。少女は嫌悪を露にし、険しい目つきで男を睨み付ける。私はなんだか胸が痛かった。

 男は、和室の入り口に、赤や白の布を巻きつけ、そこに数珠やらお札やらを貼りつけ、訳のわからない呪文のようなものをぶつぶつと呟いた。両手を動かし、指で空中に図形のようなものを描いている。1時間ほど経っただろうか。巻きつけた布やら数珠が、青白く光り始めた。

「さて、終わりましたよ。これでこの娘は部屋から一歩も外へ出ることはできませんぜ。これでこの家も安泰ですな。くっくっく・・・・・・・」

 男は喉の奥から笑い声を搾り出す。嫌な男だ。

 和室の少女は、お札に手をかざした。すると、青白い火花が散り、小さな手ははじかれてしまった。少女は私に寂しげな視線を向けた。私は思わず、目を背けてしまった。

「どうです、強力でしょう。この結界」

 にやにやとしながら、和室を眺める男。この男を連れて来て本当に良かったのだろうか・・・。

 男は多額の料金を請求してきた。私は、その世界の相場というものが分からないから、そういうものだと、その額に応じるしかなかった。

「これからの儲けに比べたら、微々たるもんでしょ。じゃあ、毎度」

 と、意味不明なことを言い、去って行った。もう二度と、あの男には会いたくないと思った。

 その日から、この屋敷の空気が変わったような気がした。濃度が濃くなったような、見た目には何も変わりは無いのだが、とにかくまわりとは何かが違う。それに、やけに草木の成長が早まっているような気がする。女中らが気味悪がって、数人がここをやめた。とにかく混沌として、この屋敷だけが違う世界に入り込んでしまったかのようだ。

 私はしばらく、眠れぬ日が続いた。どうにも、あの少女の怒ったような、悲しそうな、表情がちらついている。やはり、あのようなことをするべきではなかったのだろうか。だが、なんの知識も無い私にはあれを取り外すことはできない。かといって、あの男を再びこの家に呼ぶのには抵抗がある。

 悶々とした日々を過ごす中、風の噂で、つい最近この町に越してきた医者が、あの男と同じような術を使うらしいという話が耳に入ってきた。半信半疑ではあったが、わらにもすがる思いで、その医者を呼んだ。

 その医者は随分と若かった。安部と名乗ったその男は、二十代後半くらいで、日本人離れした整った顔立ちをしている。身長も高く、女性に人気のありそうな男だった。和服を着ているのだが、決められた衣装か何かだろうか。奇妙なのは、目の片方が、碧色をしていることだ。猫や犬ならそういうものも見たことはあるが、人間ではこれが初めてだった。聞く話によると、祖母が外国人で、その遺伝が現れたのだと言う。そちらの目だけが視力が悪く、通常では見えないものが見えるらしい。やはりこの男も胡散臭かった。

 安部は和室の入り口の布切れをみるなり、

「随分荒っぽいですね」

 と、ぽつりと言い、無造作に剥がしていった。

「これは私の方で処分しておきますので。ああ、あの男には今後関わらないことをお勧めします。」

 持参していたらしい風呂敷に、手早く包み込む。

「本当によろしいのですか?」

「は?」

 風呂敷を結びながら安部は言う。

「あんまり気が進まないんですけどねえ。これも仕事ですからしょうがありませんけど。」

 安部は懐から、一枚のお札を取り出す。

「無理矢理体を繋ぎとめても、心までとらえることはできませんよ」

 私は何も答えることはできなかった。この男は、何かを分かっていたのだろうか。私はそのようなことは一言も言っていないはずなのに。私の心の葛藤をよそに、安部はてきぱきと作業をしている。

「一応終わりました。あまり中の方に負担はありませんので、ご安心下さい。それから、これを外して欲しいと言う申し出でしたら、喜んでお受けいたしますので、お気軽にどうぞ。私はいつでも参りますから。あ、病院の方にもいらして下さい。風邪でも腹痛でも大丈夫ですよ。それから、料金は振り込みでお願いします」

 にこやかに言うと、安部はそそくさと荷物をまとめている。よくわからない男だ。一見、人が良さそうに見えるのだが、あの碧の瞳で見つめられたら、心の奥底まで見透かされているような気分になる。

「もう一つ付け加えておきますが」

「は、はあ」

 唐突にこちらに話しかける。

「これは何分、効力の弱いものですので、月に一度、定期的に貼りなおす必要がありますが、構いませんか。料金は然程かかりませんけど、月一でここへお邪魔することになるのですが」

「わ、わかりました。それでは、その日は人払いをしておく必要があるな。このことは、今現在私と貴方しか知らないのだからな」

「そうしていただけると幸いです。それでは、私はこれにて失礼いたします」

 それ以後、安部は月に一度現れ、お札のようなものを貼り換えては、二三、言葉を交わして去って行った。少女は相変わらずこの屋敷に居る。彼のかけた術は取り敢えず効いているらしい。

  ***

 これで。

 あの少女は私の元から消え去ることは無い。

 母の面影に似た、あの少女は。

 私のものだ。

 父も亡くなり、もう邪魔をするものはいない。

 そう思っていた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・あの少年が来るまでは。

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